00年春、手術後から続いた抗がん剤治療がひとまず終わり、英子さんは勤め先のある高松市に戻った。以後2ヶ月ごとの通院治療を数回繰り返し、わずかながん細胞も残さず再発を防ぐことになった。
母の安岡佑莉子さんは、自分の知識不足がふがいなかった。黙って医師の話を聞いているだけでいいのか。ちゃんと調べれば、娘を救う方法があるのではないか。
がんについて徹底的に勉強し始めた。午前中から高知医大の図書館や県立図書館に通い、パートに出る夕方まで専門書を読み込んだ。
その日知ったことを寝る前に振り返り、わからない点があると翌朝、会館時間前から図書館に向かった。最新の治療法は、がんの専門誌を毎月数冊買って熟読した。
「娘のがんが再発したら、地元の病院では対応できないだろう」。そう考え、全国の胃がんの専門医100人近くに手紙を出した。英子さんの病状を詳しく書き、「再発した時、治療の方法はあるでしょうか」と質問した。
返信は3通。内容はどれも厳しく、「おそらく転移しているから、好きなことをさせた方がよい」と書かれた手紙もあった。
新しい抗がん剤や治療法の情報が知りたくて、製薬会社や出版社にも手紙を出した。どこまで情報がえられるかわからなかったが、何かせずにはいられなかった。
胃の4分の3を切ったため、弁当は一度で食べきれず、何度かに分けて食べる。食後、吐き気が起こると1時間近くトイレにこもる。外で食事をすること自体がつらくなった。発熱すれば会社も休まざるを得なかった。
「22歳まで、手抜きをして生きてきたわけではないのに、なぜ」。涙があふれた。
2ヶ月ごとの抗がん剤治療で点滴の針を刺しやすいように、胸の血管に器具をつけておこうと主治医から提案された。だが、断った。「そんなものを体に残しておいたら、病気に支配される」と思った。いつかは必ず、点滴を外す。そう決意していた。
写真解説:がん専門誌は安岡佑莉子さんの貴重な情報源になった=高知市内で